甲斐駒定点報告
ご存知 ”駒にえべし” さんからです。
ここ2週間、週末は雲も多く、甲斐駒の姿は望めません。写真はお盆ごろのものです。
季節は秋に向かっています。9月末には、稲刈など収穫の時期が訪れます。
さて、市内の増富温泉方面を探索しました。奇岩連なる瑞牆山のふもとまで行ってきました。
登山者、キャンパーなど多くの人に出会いました。
私もいつか登ろうと思っていますが・・・。みずがき湖周辺では秋の気配も感じれたところです。
いただいた「手打ちそば」もおいしかったです。
今、山梨は登 山のみならず、観光ぶどう農園などを訪れる方々でもにぎわっています。
先日も友人家族に知り合いの農園を紹介し喜ばれたところです。ご希望者はご連絡ください。
甲斐駒夏の名残
焼石駒ヶ岳奥宮登拝(その2)
”鬚男爵”さんのストーリー写真集(その2)です。
記念撮影、”駒こだわり”さんが居なくて残念
神主さんに早変わり
奉納の品々
奥宮
山頂から釜石市まで伊達藩と南部藩との国境の道標が延々と描かれた古文書
道標
神主さんとのスナップ
”一戸町プリンス”さんの手にトンボ
夏油温泉、登山口
栗駒国定公園
焼石駒ヶ岳奥宮登拝(その1)
我がKFCが誇るスタミナ男 ”鬚男爵” さんから少しだけタイミングがずれたとはいえ、懸命なる寸評と写真が届きました。
集合場所駒形神社
全員でラジオ体操
うがい清水登山口
”一戸町のプリンス夫妻”
”駒名主” と ”駒こだわり” のお二人
下賽の河原で4人
上賽の河原から望む駒ヶ岳奥宮
奥宮まで後100m
奥宮の馬
山頂でのカキ氷
駒ヶ岳(1129.8m)
プリンスさんの背中に2匹の黄アゲハ
駒ヶ根だより(8月第二報)
”駒石花仙人” さんから、定期便です。
7日から14日まで滞在しましたが、
8・9日は、火山学会・地震学会主催「第16回地震火山こどもサマースクール」(南
アルプス「まくれあがった大地っと中央構造線のなぞ」への対応、
10~14日は、信州高遠青少年自然の家「南アルプスジオパークキャンプ」に参加、
と忙しい1週間でした。
7・8日は、中アも見えていましたが、後半10日以降は曇天・積乱雲も出るのですが
、
極部分的な雷雨程度で、ソバの芽吹きが心配です。土手の野草も夏枯れ状態です。
7日06:40ころ、駒ヶ根山家より、宝剣岳を望む。
8日07:30ころ、駒ヶ根山家より、宝剣岳、わずかに霞む。
南ア林道白岩より、東駒ヶ岳を望む。
北澤峠より、仙丈ヶ岳への尾根道より、北岳を望む。
薮沢下山道にて、群生するセンジュガンピ(唯一の白花撫子)
龍駒嶽
龍(りゅう)駒(か)嶽(たけ)「二つの謎」
”駒名主”
高頭式の『日本山嶽志』(明治39年 1906)に「龍駒嶽 陸前の国名取・柴田の二郡に跨る。名取郡秋保村より二里三町にして、其山頂に達す。全山火山岩より成るものの如し。標高約二千尺」(『駒ヶ岳とウマの百科』p24)との記述がある。
この龍駒嶽の「二つの謎」とは、その位置、そして龍駒嶽が駒ヶ岳と目されるか否かである。
先ずその位置であるが、今日の国土地理院の地形図には龍駒嶽の記載はない。しかし幾つかの古絵図、文献には龍駒嶽が記載されている。
古いものでは勅使川原滝三郎氏所蔵の「馬場村古絵図写」はその記載内容から寛文~正徳年間(1661~1715)頃と推定されていて、山形・宮城県境の小東岳(1130m)の南に龍ヶ嶽がある。
仙台藩の儒学者かつ絵師である佐久間洞巌が記述した『奥羽観蹟聞老志』(1719)には、龍駒嶽は小東岳であり、その名称の由来は「山中の龍駒が草を食べている姿に見えること」としている。小東岳としているのは洞巌のみであり、この説は疑わしい。
佐藤信要・高橋以敬の『封内名跡志』(寛保元年 1741)には「山中に龍駒あり、時々出て草を喰うと云う」とある。
『奥州仙台領遠見記』(宝暦11年 1761)には「右の方、龍ヶ嶽、小アヅマ山と言う所、水落切御境目なり」とある。水落切御境とは分水嶺上に位置する山のことである。
仙台藩作成の「封内再見大絵図」(作成年代不明)には二口街道、山伏峠(934m)の脇にリウヵ嶽がある。
「名取郡全図下書」には龍ヶ岳、山伏峰、小吾妻嶺、蕎麦角山(1044m)の記載がある。
『日本山嶽志』とほぼ同じころに陸軍陸地測量部により作成された地図には、小東岳の西で山形県(羽前)の山寺の北北東に龍駒山(標高不明)がある。山形県内にある唯一の龍駒嶽である。
現仙台市太白区秋保である、『秋保町史』(1976年)には山名の項で「龍駒嶽 盤司岩上方 1088m」、解説では「山頂に樹木なく、一面の御花畑になっている。伝説によれば、山中に龍駒が生棲し、時折草を食べているのを見かけたことがあったという」、「即ち表盤司のことで、山頂は御花畑になっている」とある。このように町史には龍駒嶽は盤司岩上方、表盤司の2種類表現されているが正しいであろうか。
ここで言う盤司(ばんじ)とは凝灰岩、集塊岩からなる柱状節理の大連壁であり、大東岳(1365m)の南側を「裏盤司」、姉滝の西・名取川左岸を「表盤司」(約3,2㎞にわたる帯状の岸壁)、右側を「日蔭盤司」と呼ばれ、国の名勝に指定されている。そして、盤司屋根のピークは1093mとされている。
宮城県の山に詳しい柴崎徹氏は盤司岩を徹底研究されていて「二口周辺の記述に常に登場する山名に龍駒岳がある。この山は、現在、糸岳と呼ばれる1221mの山を指すものと思われる」と記している。糸岳は表盤司岩の西、県境屋根にあり、町史の記述は不正確である。
柴崎徹氏の研究「盤司岩」を詳細に読むと、龍駒嶽は1221m(正しくは1226m)の糸岳に確定してよさそうである。
次に龍駒嶽は駒ヶ岳としてよろしいであろうか。
伝承での龍駒が遊びまわる山、柱状節理の山(連壁)、その規模は異なるが山形県金山町の竜馬山(金山駒ヶ岳 521m『駒ヶ岳とウマの百科』p16)とその成立は龍駒嶽は全く同じである。従がって、龍駒嶽は別称盤司駒ヶ岳と称しても可笑しくない。盤司の名称はマタギの祖の盤次郎、盤三郎兄弟に由来するとの伝承もある通り、マタギの勢力が強かった土地では山を神として崇めている。盤司とは盤神の転化である。
龍駒嶽(糸岳)1226mの位置は三角点の近くにある。
三等三角点「岩平」1227,51m
北緯; 38度17分00,0006秒
東経;140度29分49,4287秒
駒ヶ根だより(8月第一報)
我がKFC ”駒石花仙人” さんからです。
前略 猛暑は駒ヶ根も同じでした。救いは夜半の風ぐらいでしょうか。
7月30日~8月2日まで滞在しましたが、伊那谷も中央構造線の谷も陽射しは強く、
蝉しぐれも騒々しいほどで、いずこも真夏ですね。積乱雲も立ち上がるのですが、雷雨
は全くの気まぐれで、近年はまったく当てになりませんね。昔は毎年のようにかなり規
則的な夕立雨があったものですが、夏の水田風景がかなり減って(減反制)、水蒸気の供
給面積が大幅に減ったのではないでしょうか。
「○○夕立」、というような言葉も使われなくなってしまいました。「○○」は山名で
あったり、川(谷)名であったりします。
1日は「戸台の化石」保存会・第87回学習会でした。参加者37名スタッフ12名計
49名と
大盛況でした。登録標本も105標本と多量の化石産出に参加者も満足のようでした。
1日朝の山家より、宝剣岳。
2日朝の山家より、宝剣岳、いずれも猛暑のためか霞んでいる。
1日の天竜川畔より、南駒ヶ岳~空木岳(右側)連峰を望む。
1日の「戸台の化石」学習会の一齣。
奥宮登拝報告
毎年、8月になるとこの伝統的な行事となります。今年は、我がKFC ”一戸のプリンス” さんから報告をいただきました。
8月1日~2日、奥宮登拝祭に5人で参加しました。
今年は土、日となったので参加者も66人、宿泊者も33人と、楽しい登拝祭となりました。
原田さんは、頂上から夏油温泉まで2時間を切る健脚で宮司さんもビックリでした。
ただ、下山組のリーダーが15:30頃温泉に着き、原田さんのことを聞いたら我々よりも早く下山したということでした。
迷うところはないがなぁ~と思いながら待っていたら、別のホテルの露天風呂に2時間入ってきたということでした。
夜行バスで帰るという原田さんを16:50のバスで見送り、宴会モードに突入です。
部屋で飲んで会場で飲んで、他の部屋との交流で飲んで・・・。
それでも、田口会長は、朝8:30には缶ビールを手に持って交流を続けておりました。
高田さんは西和賀町沢内に2泊して、「高田沢山」に登るということでした。
晴天に恵まれた2日間、9時には皆さんそれぞれ元気に駒形神社に向かいました。