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龍駒嶽

(りゅう)(か)(たけ)「二つの謎」

                                 ”駒名主”

 高頭式の『日本山嶽志』(明治39年 1906)に「龍駒嶽 陸前の国名取・柴田の二郡に跨る。名取郡秋保村より二里三町にして、其山頂に達す。全山火山岩より成るものの如し。標高約二千尺」(『駒ヶ岳とウマの百科』p24)との記述がある。

 この龍駒嶽の「二つの謎」とは、その位置、そして龍駒嶽が駒ヶ岳と目されるか否かである。

 先ずその位置であるが、今日の国土地理院の地形図には龍駒嶽の記載はない。しかし幾つかの古絵図、文献には龍駒嶽が記載されている。

古いものでは勅使川原滝三郎氏所蔵の「馬場村古絵図写」はその記載内容から寛文~正徳年間(16611715)頃と推定されていて、山形・宮城県境の小東岳(1130m)の南に龍ヶ嶽がある。

仙台藩の儒学者かつ絵師である佐久間洞巌が記述した『奥羽観蹟聞老志』(1719)には、龍駒嶽は小東岳であり、その名称の由来は「山中の龍駒が草を食べている姿に見えること」としている。小東岳としているのは洞巌のみであり、この説は疑わしい。

佐藤信要・高橋以敬の『封内名跡志』(寛保元年 1741)には「山中に龍駒あり、時々出て草を喰うと云う」とある。

『奥州仙台領遠見記』(宝暦11年 1761)には「右の方、龍ヶ嶽、小アヅマ山と言う所、水落切御境目なり」とある。水落切御境とは分水嶺上に位置する山のことである。

仙台藩作成の「封内再見大絵図」(作成年代不明)には二口街道、山伏峠(934m)の脇にリウヵ嶽がある。

「名取郡全図下書」には龍ヶ岳、山伏峰、小吾妻嶺、蕎麦角山(1044m)の記載がある。

『日本山嶽志』とほぼ同じころに陸軍陸地測量部により作成された地図には、小東岳の西で山形県(羽前)の山寺の北北東に龍駒山(標高不明)がある。山形県内にある唯一の龍駒嶽である。

現仙台市太白区秋保である、『秋保町史』(1976年)には山名の項で「龍駒嶽 盤司岩上方 1088m」、解説では「山頂に樹木なく、一面の御花畑になっている。伝説によれば、山中に龍駒が生棲し、時折草を食べているのを見かけたことがあったという」、「即ち表盤司のことで、山頂は御花畑になっている」とある。このように町史には龍駒嶽は盤司岩上方、表盤司の2種類表現されているが正しいであろうか。

ここで言う盤司(ばんじ)とは凝灰岩、集塊岩からなる柱状節理の大連壁であり、大東岳(1365m)の南側を「裏盤司」、姉滝の西・名取川左岸を「表盤司」(約3,2㎞にわたる帯状の岸壁)、右側を「日蔭盤司」と呼ばれ、国の名勝に指定されている。そして、盤司屋根のピークは1093mとされている。

宮城県の山に詳しい柴崎徹氏は盤司岩を徹底研究されていて「二口周辺の記述に常に登場する山名に龍駒岳がある。この山は、現在、糸岳と呼ばれる1221mの山を指すものと思われる」と記している。糸岳は表盤司岩の西、県境屋根にあり、町史の記述は不正確である。

柴崎徹氏の研究「盤司岩」を詳細に読むと、龍駒嶽は1221m(正しくは1226m)の糸岳に確定してよさそうである。

次に龍駒嶽は駒ヶ岳としてよろしいであろうか。

伝承での龍駒が遊びまわる山、柱状節理の山(連壁)、その規模は異なるが山形県金山町の竜馬山(金山駒ヶ岳 521m『駒ヶ岳とウマの百科』p16)とその成立は龍駒嶽は全く同じである。従がって、龍駒嶽は別称盤司駒ヶ岳と称しても可笑しくない。盤司の名称はマタギの祖の盤次郎、盤三郎兄弟に由来するとの伝承もある通り、マタギの勢力が強かった土地では山を神として崇めている。盤司とは盤神の転化である。

龍駒嶽(糸岳)1226mの位置は三角点の近くにある。

三等三角点「岩平」1227,51

  北緯; 381700,0006

  東経;1402949,4287秒

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