北海道駒ヶ岳を描いた・・・
駒・馬をこよなく愛する人 言わずと知れた ”駒名主” さんの独演会です。
北海道駒ヶ岳を描いたフランスの武人ブリュネ
明治元(1868)年10月、鷲ノ木浜(北海道森町)に上陸した榎本釜次郎に率いられた旧幕軍にフランスの砲兵大尉のジュール・ブリュネ(1833~1911)を含む5名(ホルタン、マルラン、カズヌーヴ、ブッフィエ、いずれも下士官)のフランス人がいた。後に二コル、ユージェーヌ・コラシュ、クラトー、プラディエ、トリブーの5名(いずれも海軍見習士官)も参加する。
ブリュネは徳川幕府の要請により、フランス政府から派遣された軍事顧問団15名(後に3名追加)の一員で、かつ副団長(当時は中尉)であった。1867年1月横浜に到着、幕府軍の陸軍に砲術指導を行った。徳川幕府軍は薩長主導の新政府軍に戊辰戦争で敗退したが、榎本らはこの敗戦を了とせず蝦夷地(現北海道)に共和国の樹立を試みた。これが榎本軍と新政府軍との270日に及ぶ函館戦争である。ブリュネは幕軍の教え子たちを最後まで助けるとの信義から、ナポレオン三世に辞表を提出しての榎本軍への参加であった。
騎馬術、砲術さらに戦術理論に優れていたブリュネは風景画をよくし、つねにクロッキー用鉛筆とパレットを手元に置いていた。生涯に描いた画の数は不明であるが、今日200枚ほどのスケッチ(ほとんどが歴史研究家クリスチャン・ポラック所蔵)が発見されている。このうちの2枚が鷲ノ木着船の図(駒ヶ岳学講座シリーズⅤ『駒ヶ岳が描かれた絵図』p48,49、2012)である。
榎本軍の敗戦直前の1869年6月、ブリュネは蝦夷・函館を脱出する。新政府はフランス公使ウトレイにブリュネの裁判を要求するが、裁判にかけられないままフランス軍に復帰した。そして、1907年リヨン防衛司令官を最後に退役(陸軍少将)する。フランス政府から第二等レジョン・ド・ネール勲章を授与されている。
ブリュネを戦犯とした明治政府は、後にブリュネに
1881年1年勲三等旭日章、1895年には勲二等瑞宝章を授与している。
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